横浜市幼稚園協会

子育て応援団 〜絵本の散歩道〜

NO.100  『 かいじゅうのうろこ 』 『おんぼろヨット』 『プレゼント』 (今月の豪華なおまけ)
文 長谷川集平 絵 村上康成  ブックローン出版

絵本紹介も今回でめでたく100册目を迎えます。記念というわけではありませんが、1冊の絵本ではなく、3部作という、いつもとはちょっと違った取り上げ方で、紹介いたします。

この3部作には、海、ヨット、港、怪獣など、いくつかの共通点が見られ、村上康成の伸びやかな、そして色彩豊かな絵が、それぞれの絵本をより魅力的なものに仕上げています。しかし、話の連続性を匂わす要素は感じられるものの、内容から考えると、それぞれが独立した話として捉えるほうがよいようにも思います。作者の真意はどうなのでしょうか。

どんな絵本でも、読者としては、各々自由に感じ、楽しめばよいわけです。しかし、同じく長谷川集平によって書かれた『見えない絵本』(理論社 絵本ではなく児童文学の範疇になります。3部作の翌年に出版)を目にした時に、なるほどと感じることがありましたので、私なりの勝手な思いを少しだけ書かせていただきたいと思います。

少し前になりますが、NHKの製作による、さまざまな宗教についてかなり詳細にまとめた番組がありました。その中で、一番最後に取り上げられたのが共産主義でした。それまで、共産主義は宗教と対極にあるという意識しかなかったので、一つの宗教としてとらえるということに違和感がありました。しかし、見終わった時には妙に納得してしまったのです。すると、資本主義も同様ということになるのでしょうか。  

3部作最初の作品である『かいじゅうのうろこ』の中では、怪獣のうろこを手にいれた青年の思いが、港に近づくにつれて、皆に信じてもらえる、びっくりさせられるというものから、そのままそっとしておこうという思いに変わっていく様子が描かれています。これは、単なるロマンティズムというよりも、青年の中にある、近代的な港の景観に象徴される資本主義という宗教観と、怪獣が実在するということによって婉曲的に啓示される、人間や怪獣の創造主を神とする宗教観とのせめぎあいを暗示しているのかもしれないと思ったりもするのです。

2作目の『おんぼろヨット』では、活気溢れる漁港から単身世界の海へと旅立った男が、9年振りに故郷の港に帰ってきたことから物語が始まります。しかし、約束通り(実際は1日遅れ)に故郷に戻った男が目にしたものは、迎える人もなくさびれてしまった港の情景で、そこで男は、偶然に出会った少女と、束の間の休息を過ごすことになります。

1作目と2作目の連続性を見い出すことは難しいのですが、作者自身もあとがきの中で「そんなことはどうでもいいことで、ひとりひとりが別々の人生をいきているのに、同じことを知っていたり、共感できるのはなぜか」と書いている通り、前作では青年一人の秘密で閉じたた怪獣の存在が、男と少女の共有する秘密へと変わっていきます。

3作目の『プレゼント』では、主人公の年齢がさらに上がり、老人として描かれています。作品の持つ雰囲気も、老人にふさわしく、様々な思いが昇華されたような淡々とした味わいとなり、宗教的な香りが漂ってくる気さえします。

また、1作目、2作目との連続性も随所に伺え、読者の心をくすぐります。果たして「プレゼント」とは、絵本で描かれているように、単に老人から少年への「贈り物」という意味だけなのでしょうか。3部作と一緒に『見えない絵本』も合わせてお読みいただくと、もっと明確に何かが浮かび上がってくるように思います。

ちなみに、『見えない絵本』の粗筋は、夏休みに両親の実家である長崎に遊びにきていた少年が、不思議な出来事をきっかけに一時的に視力を失い、映画監督である叔父さんが、不在の親に代わって読み聞かせる「絵本」の内容を軸に物語がすすんでいくというものです。少年はまた、不思議な出来事があって視力を取り戻し、叔父さんの読んでくれていた「絵本」が何であるのかを知ることになります。そして、読者である私たちも、この「絵本」の正体を知ることによって、3部作の持つ意味も合わせて感じることになるでしょう。

丁度、クリスマスを前にこの原稿が仕上がりました。聖書(ヨハネによる福音書3章16節)には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。期せずして少年の誕生日も12月25日、3部作を締めくくる「プレゼント」というのは、神様から私たちへの贈り物のことなのでしょうか。(S.T)

かいじゅうのうろこ・おんぼろヨット・プレゼント

かいじゅうのうろこ・おんぼろヨット・プレゼント

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