横浜市幼稚園協会

子育て応援団 〜絵本の散歩道〜

NO.50  『 からすたろう 』
赤羽末吉/作・絵 福音館書店

今回ご紹介する『からす たろう』は、1955年、アメリカで出版されました。その年のコルデコット賞は逃したものの、米国児童研究連盟の選定する最高絵本賞を受賞するなど、高い評価を受けた作品です。紹介文は少し長くなってしまいましたが、50冊目の記念となりますので、ぜひお付き合い下さい。

この絵本のお話をごく簡単に言ってしまうと、先生やクラスの子ども達を怖がって、一緒に勉強をしたり、遊んだりすることができず、みんなから「ちび」「とんま」と呼ばれ、学校中の除け者にされてしまっている子どもが、新しく赴任してきた先生によって認められ、さらにその子どもの持っている力や魅力が他の子ども達や周囲の親に伝えられて、受け入れられていくというものです。しかし、作者はこの作品を通して、教師というものは、全ての子どもを平等に受け入れ、一人ひとりの良いところを見つけて生かしていかなければならないとか、他の子ども達との仲立ちとなって互いに成長させていかなければならないといった、単なる理想的な教師像を示しているのではないように思えるのです。

この絵本は「この絵本を磯長武雄、上田三芳の恩師にささげる」という、小学校時代の二人の恩師への感謝の言葉で締めくくられています。このことから見ても、この二人の教師との出会いが、作者の人生に大きな影響を与たことはあきらかです。しかし、作者の意図は、理想的な教師論を超えて、人が生きていくというもっと根源的な部分に関わっているように感じられるのです。そして、この点を論じるには八島太郎の生き様を辿ってみなければなりません。

八島太郎は、本名を岩松淳といい、鹿児島県の大隅半島にある肝属郡根占町に生まれました。本人は、貧農村の田舎医者の子どもと言っていますが、資産家の末っ子三男として生まれ育ちました。上田三芳は岩松の5・6年生の担任で、階層間の差別意識が強い村にあっても、生徒達を常に平等に受け止め、生徒と一緒になって野山で遊ぶ先生であり、また、磯長武雄は潮音派の歌人で、生活感のある歌を詠む一方、絵も描く人だったそうです。 岩松は中学に進みますが、地方においては中学に進む生徒などごく僅かな時代にあって、小学校を出てすぐに一家を支える働き手となっている級友に対して引け目を感じていきます。その後、東京美術学校に入学しますが、以前から感じていた軍事教練に対して反発をし、退校処分を受けて帰郷することになります。しかし、そこで岩松が目にしたものは、疲弊した故郷の姿で、岩松は当時美術界に起こっていた、プロレタリア美術運動へと傾倒していくことになるのです。

プロレタリア美術運動は軍による弾圧を受けて岩松自身も何度か拘留され、身の危険を感じた岩松は、子どもを妻の実家に預け、昭和14年に妻と一緒に横浜からアメリカへと逃れていきます。そして、渡米してまもなく開戦を迎えた岩松は、日本兵に向けた反戦のビラ作りに従事し、「死ぬな」「父よ、生きよ」「必ず生きて機会を待て」といった言葉を日本兵に対して送り続けました。後に名乗ることになる八島太郎という作家名も、植民地を持たない「八州八島の金太郎」という意味で、植民地主義・軍国主義への強い批判から生まれています。

さらに、八島太郎は戦後23年ぶりに故郷を訪れた時、小学校の卒業写真を頼りに、誰が生きているのか、誰が亡くなっているのか、なぜ亡くなったのかを一人ひとり訪ね歩いたといわれています。漠然と思い出を辿るのではなく、どの一人の安否も確かめなければ休まらないという思いは、恩師や級友達と過ごした小学校時代の濃密な日々から生じているのに違いありません。二人の恩師が、どの一人の子どもも大切に認め、受け入れていったように、八島太郎にとっても、どの一人も大切なかけがえのない一人であったのです。 絵本の「たろう」は、貧しい炭焼きの子どもでありながら毎日なっぱでくるんだ大きなにぎりめしを携え、6年間一日も休まずに学校に通い続けました。草葺きの粗末な家に住んでいることを考えれば、毎日の食事に事欠くこともあったかと思います。また、親にしてみれば、学校に行くよりも労働力として家の手伝いをして欲しいという思いもきっとあったのではないかと思います。しかし、家族は一日も欠かすことなく、「たろう」を支え続けました。学校では、どんなに馬鹿にされ、除け者にされていても、家族だけは深い愛情を持って「たろう」を支え続けました。また、「たろう」にしても、家族の苦労を知りながら、また、他の子ども達からばかにされていても学校に行くだけの意味があったのです。それは、きっと、つらい日々の中にあっても、誰かと一緒に居る、人とどこかで結び付いているということの喜びをどこかで感じとっていたのだと思えます。また、延々と遠い学校への道程の中で、今日はきっと違った一日が始まるのではという思いを募らせ、また傷ついた心を抱きながらの家まで帰路にあっては、豊かな自然の声に耳を傾けながら心を癒していたのでしょう。「たろう」は、小学校時代の実在の人物をモデルにしているといわれています。しかし、二人の恩師の姿を重ね併せて一人の教師を描き出したように、絵本の「たろう」も、多くの級友や自分自身の姿、思いをそこに凝縮して描き出しているように感じます。そして、この「たろう」を通して、一人ひとりの人間の尊厳さ、人の中で人が生きていくことの大切さを訴えかけているように感じます。

この絵本は1955年にアメリカで出版され、絶賛をあびました。しかし、日本人の手による、いかにも日本的な内容の作品であっても、日本で出版されるまでには、その後24年の歳月が必要とされました。そして、この24年は、軍国主義によって踏みにじられてきた個人の尊厳への思いが、戦争による荒廃と疲弊の中から芽をもたげ、次第に当たり前のこととして社会に受け入れ始めるまでに要した年月であると共に、国民をそして国を思いながらも国を捨てざるを得なかった八島太郎の思いが、本当に理解され、受け入れられるまでに要した長い歳月そのものなのです。(T.S)

からすたろう

からすたろう

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